東京地方裁判所 平成8年(ワ)2064号 判決 1998年12月25日
甲事件原告・乙事件被告
工業機器株式会社
右代表者代表取締役
山口正高
乙事件被告
山口正高
右両名訴訟代理人弁護士
赤坂裕彦
同
流矢大士
同
佐藤康則
同
富永紳
甲事件被告・乙事件原告
榎本一裕
甲事件被告
榎本系
右両名訴訟代理人弁護士
石原寛
同
吉岡睦子
同
山川隆久
同
青木英憲
右当事者間の損害賠償(甲事件)、損害賠償等(乙事件)各請求事件について、当裁判所は、平成一〇年一一月一三日に終結した口頭弁論に基づき、次のとおり判決する。
主文
一 甲事件原告の請求をいずれも棄却する。
二 乙事件被告工業機器株式会社は、乙事件原告に対し、金一五七万二四二四円及び内金一二〇万円に対する平成七年六月二一日から、内金三七万二四二四円に対する同月二七日から、いずれも支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 乙事件被告らは、乙事件原告に対し、各自金二〇万円及びこれに対する平成八年二月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
四 乙事件原告のその余の請求を棄却する。
五 訴訟費用は、甲事件、乙事件を通じて、甲事件被告・乙事件原告榎本一裕に生じた費用の一〇分の一を甲事件原告・乙事件被告工業機器株式会社及び乙事件被告山口正高の連帯負担とし、その余を甲事件原告・乙事件被告工業機器株式会社の負担とする。
六 この判決は、二項及び三項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
(甲事件)
一 甲事件被告榎本一裕は、甲事件原告に対し、金一五七七万七九六〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(平成八年二月一九日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 甲事件被告榎本系は、甲事件原告に対し、金四七八万一七九三円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(平成八年二月二〇日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 訴訟費用は甲事件被告らの負担とする。
四 仮執行宣言
(乙事件)
一 乙事件被告工業機器株式会社は、乙事件原告に対し、金一五七万二四二四円及びこれに対する平成七年六月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 乙事件被告らは、乙事件原告に対し、各自金一〇〇万円及びこれに対する平成八年二月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 訴訟費用は乙事件被告らの負担とする。
四 仮執行宣言
第二事案の概要
(甲事件)
本件は、元従業員が実際には労務を提供していないのに提供していると見せかけて会社を誤信させて賃金等を騙取した、元従業員が虚偽の売上事実を申告したため会社が過分に納税してしまった、これらの点についての事実調査をしたところ会社の信用が失墜したなどとして、会社が、元従業員及びその身元保証人に対し、損害の賠償等を請求している事案である。
(乙事件)
本件は、元従業員が、会社に対し、未払賃金、退職金を請求するとともに、甲事件の訴訟提起は不当な訴え提起であるとして、会社及びその代表者に対し、損害の賠償を請求している事案である。
一 争いのない事実等
1 当事者等
(一) 甲事件原告・乙事件被告工業機器株式会社(以下「工業機器」という。)は、エアーフィルターなどの空気清浄装置に関する機械器具等の製造・販売を業とする会社である。
(二) 乙事件被告山口正高(以下「山口」という。)は、工業機器の代表取締役である。
(三) 甲事件被告・乙事件原告榎本一裕(以下「榎本一裕」という。)は、昭和五九年一二月一一日工業機器に入社した。
(四) 甲事件被告榎本系(以下「榎本系」という。)は、平成七年二月一日、工業機器に対し、榎本一裕の行為により工業機器に損害を与えた場合、榎本一裕と連帯して損害を賠償する旨約した(身元保証契約の締結)。
2 榎本一裕の職務内容等
榎本一裕は、平成元年一月ころから、営業部の最高責任者である営業課長の地位にあった。
同人の職務は、エアーフィルターなどの空気清浄装置に関する機械器具等の商品の購入及び設備工事の受注のための営業業務並びに営業全般の管理業務であった。
3 賃金
工業機器では、賃金は毎月二〇日締め二六日払いであり、榎本一裕の平成七年五月当時の賃金は、手取りで月額三七万二四二四円であった。
4 榎本一裕の退職
榎本一裕は、平成七年五月又は六月に工業機器を退職した。(具体的時期及び退職の原因については争いがある。)
5 退職金
工業機器の退職金規定によれば、榎本一裕が平成七年五月又は六月に自己都合で退職した場合の退職金は、一二一万五〇〇〇円である。
6 甲事件の訴え提起
山口は、平成八年二月六日、工業機器の代表者として、甲事件の訴えを提起し、訴状は同月一八日榎本一裕に送達された。
二 当事者の主張
(甲事件)
1 甲事件原告工業機器
(一) 不法行為による損害賠償請求
(1) 架空伝票起票による賃金等の騙取
ア 榎本一裕は、平成五年九月二四日、実際には注文がなかったにもかかわらず、別表1<略>番号1記載の架空の受注納品伝票を起票した。これは同人が労務の提供をしているかのように見せかけて誤信させ、賃金を騙取する意図に出たものである。
なお、工業機器においては、受注内容が確定していない場合には、受注納品伝票を起票してはならない取扱いになっていた。
イ 工業機器は、榎本一裕が右架空の受注納品伝票を起票した事実をその時点で知ったならば当然その時点で懲戒解雇していたものであり、以後同人に対して給与、賞与等の賃金及び交通費の支給をしていなかった。
ウ 榎本一裕は、その後も別表1記載のとおり架空の受注納品伝票を起票して労務の提供をしていると見せかけて誤信させたりして、賃金を騙取している事実を隠蔽していた。
工業機器では、営業職について、給与・賞与等の評価、すなわち労務提供の有無の判断の対象が、営業成績、すなわち粗利獲得金額のみとされており、その旨榎本一裕も熟知していた。そこで、同人は、営業成績を粉飾し、労務を提供しているかのように装い、工業機器から賃金を騙取するため架空伝票を起票したものである。
エ そのため工業機器は、平成五年九月二五日から平成七年五月二〇日までの給与、賞与等の賃金及び交通費を榎本一裕に支払い、右賃金等相当分の損害を被った(右イの理由で平成五年九月二五日以後支払った賃金等の全額が損害となる。)。
オ 右賃金相当分は一〇九一万六九四〇円、交通費相当分は二九万三二二〇円である。
(2) 虚偽の売上事実の申告による税金過払いの損害
ア 榎本一裕は、賃金を騙取する過程で、工業機器に対し、別表2<略>記載の虚偽の売上・納品事実を申告した。そのうち平成五年一〇月一日から平成六年九月三〇日までの粗利の合計は六九三万八四〇〇円である。
イ 工業機器は、右のとおり売上・納品があったものと誤信し、平成五年一〇月一日から平成六年九月三〇日までの事業年度分の確定納税申告の際、四〇〇万七五五三円の所得金額があるものとして申告し、法人税一一一万五四〇〇円、東京都事業税二一万七二〇〇円、都民税一六万三九〇〇円、栃木県事業税三万八三〇〇円、栃木県民税八四〇〇円、宇都宮市民税二万四六〇〇円(合計一五六万七八〇〇円)を納税した。
ウ 工業機器が申告した所得金額から榎本一裕が申告した売上による粗利を差し引くと欠損が生じるから、虚偽の申告がなければ、法人税、地方税はいずれも〇円になっていたものである。
オ(ママ) したがって、工業機器は一五六万七八〇〇円を過分に納税したことになり、同額の損害を被った。
(3) 信用失墜による損害
ア 工業機器は、榎本一裕の架空伝票起票等に関する事実調査のために、取引先や納品先など計三〇か所以上の事実調査を行った。
イ その結果、工業機器の信用は失墜し、取引先からの新規受注を断られたり、営業のための出入りを禁止されるなど、信用失墜による損害を被った。
ウ 一社あたりの信用失墜額を一〇万円と評価すると、工業機器が被った損害は三〇〇万円を下らない。
(4) まとめ
右(1)ないし(3)の損害の合計は一五七七万七九六〇円である。
(二) 債務不履行による損害賠償請求(前記(一)(1)についての予備的主張)
(1) 榎本一裕は、工業機器の営業担当従業員として、平成五年九月二四日から平成七年五月二〇日までの間、雇用契約上の債務として、工業機器に対して、営業活動を行い、会社に売上をあげて利益をもたらす義務、及び会社の指揮・命令に従う義務を負っていたものである。
しかし、榎本一裕は右義務を履行していなかった。平成五年九月二四日、架空の受注納品伝票を起票し、その後も架空受注納品伝票の起票を繰り返し行い、工業機器に労務の提供をしていると仮装し、指揮・命令に背いていたのである。
(2) なお、工業機器では、営業担当者一人あたりが売り上げるべき粗利金額の目標は、給与の五倍の金額である。工業機器は、榎本一裕に営業マニュアルを交付して、給与の五倍以上の粗利を会社にもたらすように営業活動を行うことを義務づけていたものである。榎本一裕の給与を月額四五万円とすると、同人の目標となる粗利の金額は、月額二二五万円、年間二七〇〇万円であった。
しかし、榎本一裕は、平成五年一〇月から平成七年五月まで合計で三二七万六七五三円、月平均で約一六万円程度の売上しかもたらさなかったから、同人は工業機器に対する右義務の履行をしていなかったものである。
そして、工業機器がこの間榎本一裕に対して支払った給与(賞与を含む)は、一〇九一万六九四〇円であり、この間榎本一裕が会社にもたらした粗利の額は、給与の三分の一にも満たないものであって、工業機器に損失を与えているものである。
(三) 不当利得返還請求(前記(一)(1)についての予備的主張)
(1) 賃金は労働の対価として支払われるものであり、労務の提供がない場合には支払う必要がない。榎本一裕は、工業機器から賃金を騙取する目的で、平成五年九月二四日以後架空の受注納品伝票を繰り返し発行し、労務の提供を仮装していたものである。このため、工業機器は、榎本一裕が労務の提供をしているものと誤信し、平成五年九月二四日以後の賃金を支払ったものであり、右賃金の給付は、錯誤により無効である。
(2) したがって、工業機器が榎本一裕に支払った平成五年九月二四日以後平成七年五月二〇日までの賃金は、法律上の原因に基づかない榎本一裕の不当利得となる。
(3) よって、工業機器は、榎本一裕に対し、この間の支払賃金合計一〇九一万六九四〇円の返還を請求する。
(四) 榎本系に対する請求
榎本一裕が工業機器に対して与えた損害のうち、榎本系と工業機器間の身元保証契約期間内に発生した損害は、榎本一裕が工業機器から騙取した平成七年二月一日から同年五月二〇日までの賃金一七一万四九〇三円、平成七年二月一日から同年六月五日分の交通費合計六万六八九〇円、信用失墜による損害三〇〇万円の合計四七八万一七九三円である。
2 甲事件被告榎本一裕、同榎本系
(一) 不法行為による損害賠償請求について
(1) 架空伝票起票による賃金等の騙取について
ア 工業機器においては、営業担当者が顧客の購入担当者との間で受注についての話し合いを行い、受注概算額が決まり次第受注納品伝票を起票していた。
イ 別表1記載の受注納品伝票はいずれも、発注先やメーカーからの話を受けて、品名や数量、値段などの折衝を行い、見積書を提出するなどしたうえで起票したものであって、取引の話が全くないのに、全く架空の受注納品伝票を起票したことは一度もない。
ウ したがって、榎本一裕は正しく労務を提供しており、労務を提供していないにもかかわらず、架空伝票を起票して労務を提供しているように仮装したなどということは全くない。
エ そもそも工業機器において売上や粗利が低いことを理由に降格や解雇にされた従業員はおらず、榎本一裕についても降格や解雇をほのめかされたことはなかったから、あえて架空の伝票を作成して自己の営業成績を水増しする必要など全くなかった。
(2) 虚偽の売上事実の申告による税金過払いの損害について
架空の受注納品伝票を起票したことは全くなく、これに関連して故意に虚偽の売上を会社に申告したこともない。
(3) 信用失墜による損害について
信用失墜の事実も認められないし、元従業員の不正行為の調査が当然に会社の信用失墜を招くというものではないから、相当因果関係もない。
(二) 債務不履行による損害賠償請求について
(1) 榎本一裕は、工業機器の営業担当従業員としての職務を行っており、労働義務の不履行は全くない。
(2) 工業機器の主張は、要するに、会社が一方的に定めたノルマを達成できなければ労働義務の不履行になり、賃金を返還しなければならないというものであるが、そのような主張に理由がないことは明らかである。
(三) 不当利得返還請求について
工業機器と榎本一裕との間には、榎本が退職するまで雇用契約が存在しており、これに基づいて給与等が支払われていたのであって、ここには意思表示の要素の錯誤が介在する余地はない。
(乙事件)
1 乙事件原告榎本一裕
(一) 未払賃金請求
榎本一裕は、平成七年六月二〇日まで従業員として労務を提供(ただし、一部は年次有給休暇を取得。)していたが、工業機器は六月分(五月二一日から六月二〇日までの分)の賃金(手取りで三七万二四二四円)を支払わない。
なお、工業機器が、同年五月一五日、榎本一裕に対し、懲戒解雇を通告した事実はない。
(二) 退職金請求
(1) 榎本一裕は、平成七年六月二〇日をもって、工業機器を自己都合退職した。
なお、工業機器が、同年五月一五日、榎本一裕に対し、懲戒解雇を通告した事実はない。
(2) 工業機器の退職金規定によれば、退職金は一二一万五〇〇〇円となるところ、内金一二〇万円の支払を求める。
(三) 不当訴訟による損害賠償請求
(1) 山口は、甲事件で工業機器が主張する事実がないことを十分に承知していながら、工業機器の代表者として、虚偽の主張に基づいて原告に対する訴えを提起した。仮に知らなかったとしても、簡単な調査をすれば架空伝票の作成などの不正行為がなかったことが容易に判明したにもかかわらず、これを怠って、訴えを提起したものである。
(2) 榎本一裕は、山口の故意ないし重大な過失に基づいて提起された不当な訴訟により、詐欺を行ったと中傷され、かつ応訴を余儀なくされたことにより、多大な精神的損害を被った。
右損害を慰謝するには、少なくとも一〇〇万円の損害賠償が認められるべきである。
(3) 山口は、工業機器の代表者として、その職務執行の一環として前記不当訴訟を提起したものであるから、工業機器も民法四四条一項に基づいて損害賠償責任を負う。
2 乙事件被告工業機器、同山口
(一) 未払賃金請求について
工業機器は、平成七年五月一五日にした通告により、同月二〇日をもって榎本一裕を懲戒解雇したから、六月分の賃金を支払う義務はない。六月二〇日までについては、同年一月二三日に夏期賞与の前払いとして四〇万三八二四円を支払済みであったので、その返還を求めない代わり残務整理をすることを求め、榎本一裕もこれを了承したものである。
(二) 退職金請求について
工業機器は、平成七年五月一五日にした通告により、同月二〇日をもって榎本一裕を懲戒解雇したものであるところ、就業規則上懲戒解雇の場合には退職金を支払わない旨定められているから、工業機器に退職金支払義務はない。
(三) 不当訴訟による損害賠償請求について
争う。
三 争点
(甲事件)
1 榎本一裕の不法行為責任の成否
(一) 榎本一裕が、架空の受注納品伝票を起票することにより、実際には労務を提供していないのに提供していると見せかけて工業機器を誤信させ、賃金等を騙取した事実が認められるか。
(二) 榎本一裕が虚偽の売上事実を申告したため、工業機器が過分に納税した事実が認められるか。
(三) 架空の受注納品伝票の起票等に関する調査をしたため、工業機器が信用を失墜した事実が認められるか。また、榎本一裕の行為と工業機器の信用失墜との間に相当因果関係があるか。
2 榎本一裕の債務不履行責任の成否
3 榎本一裕の不当利得の成否
(乙事件)
1 榎本一裕の退職時期及び退職原因
2 甲事件の訴え提起が榎本一裕に対する不法行為となるか。
第三争点に対する判断
(甲事件)
一 争点1(一)について
1(一) 雇用契約において、使用者の賃金支払と対価関係に立つのは、被用者の労務提供であるから、賃金の騙取という不法行為が成立するためには、被用者に実際に労務を提供していないにもかかわらず労務を提供しているように装うという欺罔行為がなければならない。そして、ある期間の賃金をすべて騙取したというためには、当該期間中右欺罔行為が継続していることが必要である。
この点、工業機器は、榎本一裕が架空の受注納品伝票を起票した事実をその時点で知ったならば当然その時点で懲戒解雇していたものであり、以後同人に対して給与、賞与等の賃金及び交通費の支給をしていなかったから、別表1番号1記載の受注納品伝票を起票した日の翌日以後支払った賃金等の全額が損害となると主張する。
しかし、仮に懲戒解雇事由があったとしても、実際に解雇していない以上、雇用契約は終了せず、その後被用者が労務を提供すれば、使用者は賃金を支払う義務があるのは当然であって、別表1番号1記載の受注納品伝票を起票した日の翌日以後支払った賃金等の全額を榎本一裕が騙取したと認められるものではない。
(二) 次に、榎本一裕の職務は受注のための営業活動だけではないことは前記(第二の一2)のとおりであるから、複数起票した受注納品伝票の中にいくつか架空のものがあったとしても、そのことから直ちに同人が労務を提供していなかったと判断できるものではない。すなわち、受注納品伝票が架空であることは、同人が労務を提供していなかったことを推測させる重要な事実とはなり得るものの、その事実のみで足りるものではなく、同人の職務全般についての検討が必要である。
この点、工業機器は、同社では、営業職について、給与・賞与等の評価、すなわち労務提供の有無の判断の対象が、営業成績、すなわち粗利獲得金額のみとされていると主張する。
しかし、就業規則等の具体的根拠が明確でなく、主張事実を認めるに足りる証拠もない。なお、雇用契約上、営業成績と賃金との間に対応関係がある場合(出来高払制を採っている場合等)には、架空の売上を報告すること自体が賃金騙取の欺罔行為になると考えられるが、その場合であっても、騙取したといえるのは、原則として、当該架空売上に対応する賃金に限られる。
以上のような基本的理解を踏まえて、以下、原告主張の欺罔行為、賃金等騙取の事実が認められるかを具体的に検討する。
2 前記争いのない事実、証拠(<証拠・人証略>、その他各事実の末尾に記載したもの)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(一)(1) 榎本一裕は、平成五年九月二四日、別表1番号1記載のとおり、受注先を株式会社朝日工業社(以下「朝日工業社」という。)、納品先を栃木県衛生環境センター、受注金額を六〇〇万円とする受注納品伝票を起票した。同人は、その後台数変更等を理由に三度にわたって右伝票の金額欄を訂正した。(<証拠略>)
また、同人は、平成六年一二月一二日から平成七年五月八日にかけて、受注先及び納品先を前記の伝票と同じくする別表1番号12ないし21及び23ないし26記載の受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
朝日工業社は、平成六年八月二九日、工業機器に対し、榎本一裕が作成した平成五年一〇月二六日付け見積書に基づくものとして、税抜価格一三〇〇万円、消費税三九万円、契約額一三三九万円とする注文書を発行し、その後、平成七年六月五日、税抜価格三〇〇万円、消費税九万円、契約額三〇九万円分の注文を取り消す旨の注文書を発行し、その後、右取消分を除く商品が実際に納品された。(<証拠略>)
また、別表1番号24(<証拠略>)の受注納品伝票に関する取引も、その後実際に行われている。
(2) 榎本一裕は、平成五年一一月二日から平成七年五月一五日にかけて、別表1番号2、6及び28記載のとおり、受注先を朝日工業社、納品先を富士通株式会社若松工場とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
これらについては、受注する方向での話はあったが、その後立ち消えになってしまった。
(3) 榎本一裕は、平成五年一一月二六日及び平成六年一〇月四日、別表1番号3及び10記載のとおり、受注先を朝日工業社、納品先を東京大学医科学研究所とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
なお、右の納品先に関し、榎本一裕は、平成六年六月一三日、金額を三〇〇万円とする受注納品伝票を起票したが、これについては、工業機器がニッタ株式会社から商品を仕入れて納品先に納品している。(<証拠略>)
(4) 榎本一裕は、平成六年二月一六日、別表1番号4記載のとおり、受注先を朝日工業社、納品先は後日報告とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
(5) 榎本一裕は、平成六年二月二三日、別表1番号5記載のとおり、受注先を朝日工業社、納品先をニチロ毛皮株式会社草加工場とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
当時、同工場に活性炭フィルタユニットを設置する話は出ていたが、最終的には設置しないことになり、納品には至らなかった。
(6) 榎本一裕は、平成六年九月五日、別表1番号8記載のとおり、受注先を朝日工業社、納品先を横浜病院老人保険(ママ)施設とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
当時、朝日工業社では右納品先で使用するためエアーフィルターを発注する予定があり複数の会社に見積りを依頼し、工業機器では榎本一裕が見積書を作成したが、他のメーカーの方が安かったため、最終的には工業機器が納品するには至らなかった。
(7) 榎本一裕は、平成六年九月二〇日、別表1番号9記載のとおり、受注先を朝日工業社、納品先を公立阿伎留病院とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
当時、朝日工業社では右納品先で使用するためエアーフィルターを発注する予定があり複数の会社に見積りを依頼し、工業機器では榎本一裕が見積書を作成したが、他のメーカーの方が安かったため、最終的には工業機器が納品するには至らなかった。
(8) 榎本一裕は、平成六年一〇月二六日、別表1番号11記載のとおり、受注先を朝日工業社、納品先を第一勧業銀行千葉事務センターとする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
(9) 榎本一裕は、平成七年三月三〇日、別表1番号22記載のとおり(ただし、納品先は「機械」事業部ではない。)、受注先を朝日工業社、納品先を同社機器事業部とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
(10) 榎本一裕は、平成六年一二月二一日及び平成七年五月一二日、別表1番号7及び27記載のとおり、受注先を朝日工業社、納品先を同社技術研究所とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
なお、右の点に関しては、当初朝日工業社からパーティクルカウンターに関する発注があったが、後に取り消された。
(11) 榎本一裕は、平成七年二月二二日及び同月二八日、別表1番号29及び30記載のとおり、受注先を大成サービス株式会社、納品先を東京電子機械工業株式会社健康保険組合一宮保養所とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
(12) 榎本一裕は、平成六年一一月二二日及び平成七年四月二四日、別表1番号31及び32記載のとおり、受注先を和光堂株式会社、納品先を同社東京工場とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
右のうち別表1番号31(<証拠略>)の伝票に関しては、榎本一裕は伝票起票に先立ち受注先から依頼されて見積りを出していたが、受注先の都合で納品には至らなかった。別表1番号32(<証拠略>)の伝票に関しては、榎本一裕退職後に改めて注文があり、工業機器は商品を納品した。
(13) 榎本一裕は、平成七年三月七日、別表1番号33記載のとおり、受注先を有限会社太陽冷熱、納品先を宇宙科学研究所とする受注納品伝票を起票した。(<証拠略>)
(二) 受注納品伝票は、A片、B片、C片、D片の四枚綴りになっており、営業担当者はD片を控えとして保管し、残りを営業課長に提出することになっている。営業課長は、これらの受注納品伝票の内容を確認した上、総務部の業務担当者に交付する。業務担当者は伝票番号等を記入して代表取締役に回し、代表取締役が確認して業務担当者に返却する。業務担当者は、返却された受注納品伝票のうちA片を営業担当者に交付し、B片を自ら保管する。C片については、サービスセンターを経由する商品である場合はサービスセンターへ配付し、そうでない商品である場合は業務担当者がそのまま保管する。
営業担当者の成績を調べる際には、営業部と総務部でそれぞれ受注納品伝票を集計し照らし合わせている。
3(一) 右2の事実によれば、榎本一裕が起票した各受注納品伝票の多くは、実際に受注の話があり、榎本一裕が見積書の作成等を経て起票したものであると認められる。したがって、架空の受注納品伝票であると評価することはできない。起票に至る経緯を認定していない受注納品伝票についても、榎本一裕本人の供述を裏付ける適切な証拠がないことから認定はしていないものの、後記(二)で述べるとおり、架空の受注納品伝票であると認めるに足りる適切な証拠もない。
かえって、榎本一裕が平成五年九月以降正式に受注したものであることを工業機器自身が認めている受注納品伝票も多数あるから(<証拠略>)、受注納品伝票の起票の点から榎本一裕が実際に労務を提供していないにもかかわらず労務を提供しているように装っていたと認めることはできない。
(二) この点につき(人証略)は、別表1番号1(<証拠略>)の受注納品伝票に注文番号の記載がないのは正式な発注がない架空の伝票だからであり、このような伝票を作成することはあり得ないと証言する。
しかし、右証言は、同証人が正式な受注があったと認める受注納品伝票の中に注文番号の記載のないものがある(<証拠略>)ことの説明ができないこと、注文書が来るより前に受注納品伝票を作成することもあることを認めていること、及び(証拠略)の受注納品伝票には伝票番号が記載され社長印も押捺されていることからすると、A片、B片、C片は総務部の業務担当者に交付され、代表取締役も閲覧したが、当時特に問題にされなかったと認められることに照らし、採用できない。なお、納品先が特定されていない別表1番号4(<証拠略>)の受注納品伝票にも社長印が押捺されており、このような伝票も当時問題にされていなかったことが窺われる。
また、同証人及び山口本人は、各受注納品伝票の受注先に問い合わせたところ、そのような注文はしていない、担当者として記載されている者はいないとの回答であったなどと供述するが、同人らの調査の正確性には疑問があり(後記4のとおり。)、たやすく信用できない。
4 次に、(証拠略)は、遠藤弘之を含む工業機器従業員が取引先等から聴き取った内容を整理した調査票であり、榎本一裕が訪問したと営業日誌に記載した取引先等に実際には行っていないことを立証しようというものであるが、(人証略)の証言によっても、電話で聴き取ったにとどまるものが多く、手帳等で十分に確認してもらっているわけではないなど、調査方法が適切であるとは言い難い上、横浜病院老人保険(ママ)施設についての聴き取り調査のように、相手方が明確には否定していないものを明確に否定したかのように記載しているなど記載の正確性にも疑問がある。また、この調査結果によっても、榎本一裕が訪問したことを認めるもの、否定しないものが多い。したがって、これらの書証からも、榎本一裕が実際に労務を提供していないにもかかわらず労務を提供しているように装っていたと認めることはできない。
5 山口本人は、榎本一裕が乾癬という皮膚病で体中痒くて勤労意欲が湧かなかったので家で寝ていたと認めたと供述するが、これを否定する榎本一裕の供述と対比してたやすく信用できない。
6 (人証略)、山口本人は、榎本一裕が月に三、四回、あるいは四、五回程度遅刻や無断欠勤をし、また昼くらいから営業活動と称して外出していたと供述するが、これらによっても、榎本一裕が多くの日は少なくとも午前中は工業機器の事務所で労務を提供していたと認められる(なお、工業機器は、平成五年九月二五日以降賃金全額を支払ったこと、すなわち欠勤を理由とする減額をしていないことを前提にその全額の支払を求めているが、これは無断欠勤の事実の存在を疑わせるものである。)。
また、榎本一裕は営業部の最高責任者である営業課長の地位にあり、その職務は、設備工事の受注のための営業業務だけではなく、機械器具等の商品の購入や営業全般の管理業務に及んでいたものであるところ(前記第二の一2)、(人証略)の証言によっても、榎本一裕が営業担当職員の営業成績を管理し、代表取締役とともに月々営業会議を行っていたと認められる。
これらの事実に照らすと、榎本一裕が全く労務を提供していなかったとは到底認められない。
7 以上の次第で、榎本一裕が、架空の受注納品伝票を起票することにより、実際には労務を提供していないのに提供していると見せかけて工業機器を誤信させ、賃金等を騙取したとは認められない。
二 争点1(二)について
1 証拠(<証拠略>)及び弁論の全趣旨によれば、工業機器は、平成五年一〇月一日から平成六年九月三〇日までの事業年度分の確定納税申告の際、四〇〇万七五五三円の所得金額があるものとして申告し、法人税一一一万五四〇〇円、東京都事業税二一万七二〇〇円、都民税一六万三九〇〇円、栃木県事業税三万八三〇〇円、栃木県民税八四〇〇円、宇都宮市民税二万四六〇〇円(合計一五六万七八〇〇円)を納税したと認められる。
2 工業機器は、榎本一裕が申告したとおり売上・納品があったものと誤信して納税したと主張する。
3 しかし、(証拠略)だけでは、工業機器が別表2記載の取引を売上として計上し申告していたとは認められない。
かえって、(人証略)は、受注納品伝票が作成されただけでは売上としては計上していないこと、納品があったとの報告があると総務部が受注先に請求書を送り、そのときに売上を計上するのが原則であること、納品の事実がないのに請求書を発送すれば受注先との間でトラブルが発生するはずであるが、トラブルが発生したことはないことを認めており、山口本人も、納期が先のものは売上として計上しないことを認める供述をしている。
4 よって、別表2記載の取引を売上として計上し申告していたとは認められず、榎本一裕が虚偽の売上事実を申告したため、工業機器が過分に納税したとは認められない。
三 争点1(三)について
信用失墜による損害賠償請求は、榎本一裕に不法行為があったことを前提とするものであるが、前述のようにそのような事実は認め難い。また、請求書を発送して取引先との間にトラブルが発生したような場合とは異なり、内部的な文書である受注納品伝票の記載の正確性や訪問の事実等を確認するため取引先等に問い合わせたことにより、会社としての信用を失墜するとは通常認められないから、営業のための出入りを禁止されるような事実があったとしても、別の原因によるものであることが推認されるのであって、受注納品伝票の起票等に起因するものであるとは認め難い。
したがって、榎本一裕の不法行為によって、工業機器が信用を失墜したとは認められない。
四 争点2について
1(一) 工業機器は、榎本一裕が雇用契約上の債務として、営業活動を行い、会社に売上をあげて利益をもたらす義務、及び会社の指揮・命令に従う義務を負っていたと主張する。
(二) しかし、労務の提供として営業活動を行う義務があることはともかくとして、会社に売上をあげて利益をもたらす義務というものは雇用契約の性質上当然には認められない。そして、労務の提供の事実については既に判示したとおりである。
会社の指揮・命令に従う義務の違反については、その主張からは違反の内容が判然としないが、仮にそのような事実があったとしても、その場合に損害となり得るのは、指揮・命令に背いたことにより会社が現実に被った損害であって、賃金そのものではない。
2 工業機器はまた、給与の五倍の粗利を会社にもたらす義務があったと主張する。
しかし、従業員に対し営業マニュアル(<証拠略>)のようなもので一方的に給料の五倍の粗利を上げることを義務づけられるものではなく、努力目標として以上の効力を認めることはできない。(証拠略)の7項(3)も「個人目標」となっているにすぎない。
3 よって、榎本一裕に債務不履行責任があるとは認められない。
五 争点3について
榎本一裕が労務を提供していなかったと認められないことは、既に判示したとおりであり、不当利得も成立し得ない。
(乙事件)
一 争点1について
1 証拠(<証拠・人証略>)によれば、榎本一裕は、平成七年五月下旬ころ、山口から「どこの誰かは言えないが、君があるところに行って私の悪口を言っているという話を聞いた。そういう社員には会社にいて欲しくない。そろそろ会社を辞めてもらいたい。」と言われたことをきっかけとして、同年六月二〇日をもって自ら退職したと認められる。なお、山口の右発言は退職を勧奨したにすぎず、解雇の告知であるとまでは認められない。
2 これに対し、山口本人は工業機器の主張に沿う供述をするが、五月一五日当時どのような事実を認識していたのかについての同人の供述は信憑性に欠ける。また、榎本一裕の営業日誌(<証拠略>)には、五月一五日から五月三一日までは通常の営業活動の記載があり、六月一日に初めて残務整理、引継事務との記載があること、解雇を告知したという五月一五日、解雇日と定めたという同月二〇日以降も工業機器は請求に応じて交通費を支払っていること(<証拠・人証略>)、(人証略)も退職のことを聞いたのは六月に入ってからである旨証言していることに照らしても、山口の供述は信用し難い。
また、解雇した理由についての工業機器の主張は変遷しており、榎本一裕が六月二〇日まで出社していたことについても、当初(平成八年四月二二日付け準備書面)は、「山口社長の留守を見計らって会社事務所に立ち入」ったと主張していたが、後に、同年一月二三日に夏期賞与の前払いとして四〇万三八二四円を支払済みであったので、その返還を求めない代わり残務整理をすることを求め、榎本一裕もこれを了承したものであるとの主張に改めている。このような主張の変遷からみても、工業機器の主張は採用し難い。
3 よって、榎本一裕の請求中、工業機器に対し、平成七年六月分の賃金と退職金を請求する部分は理由がある。ただし、賃金が毎月二〇日締め二六日払いであることは前記のとおり(第二の一3)であるから、平成七年六月分(五月二一日から六月二〇日までの分)の賃金について、工業機器が遅滞に陥るのは、同年六月二七日以降である。したがって、榎本一裕の請求中、同日より前の遅延損害金の支払を求める部分は理由がない。
二 争点2について
1 法的紛争の当事者が当該紛争の終局的解決を裁判所に求め得ることは、法治国家の根幹にかかわる重要な事柄であるから、裁判を受ける権利は最大限尊重されなければならない。
しかし、訴えを提起された者にとっては、応訴を強いられ、そのために、弁護士に訴訟追行を委任しその費用を払うなど、経済的、精神的負担を余儀なくされるのであるから、応訴者に不当な負担を強いる結果を招くような訴えの提起は、違法とされることのあることもやむを得ないところである。
以上の観点からすると、提訴者が敗訴したとしても、直ちに訴えの提起が違法になるとはいえないものの、提訴者の主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものである上、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときには、当該訴えの提起は違法になるというべきである。
2 本件についてこれを検討するに、甲事件における工業機器の主張の核心をなしているのは、別表1記載の受注納品伝票がすべて架空のものであるとの主張、別表1番号1記載の受注納品伝票を起票した日の翌日以後支払った賃金等の全額が損害となる(榎本一裕が騙取していたことになる。)との主張であるが、事実についての主張は証拠上認め難く、法律上の主張は採用できないことは、前記のとおりであり、工業機器のその余の事実的、法律的主張も同様である。そして、これらの主張が失当であることは通常人であれば容易に知り得たというべきである。
そして、一年半以上にわたる労務の提供をすべて否定し、詐欺(賃金等の騙取)という犯罪行為ともなる行為があったと主張して損害の賠償等を求める甲事件の訴え提起は、裁判を受ける権利の重要性を考慮しても、著しく相当性を欠くものであって違法であり、榎本一裕に対する不法行為になるというべきである。
3 不当訴訟によって榎本一裕が被った精神的苦痛に対する慰謝料は、二〇万円が相当である。
(結論)
以上の次第であるから、甲事件原告の請求はいずれも理由がない。
乙事件原告の請求は、乙事件被告工業機器に対し、平成七年六月分の賃金三七万二四二四円及びこれに対する同月分の賃金支払日の翌日である同月二七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金並びに退職金の内金一二〇万円及びこれに対する退職日の翌日である同月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を、乙事件被告らに対し、各自二〇万円及びこれに対する不法行為日後である平成八年二月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。
よって、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六四条ただし書、六五条一項ただし書を、仮執行の宣言につき同法二五九条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 飯島健太郎)